Hoch と Tief


高気圧 Hochdruckgebiet (n. -(e)s/-e) と低気圧 Tiefdruckgebiet (n. -(e)s/-e) は、短い形でそれぞれ Hoch (n. -s/-s) と Tief (n. -s/-s) とも呼ばれます。どちらもひと目で分かる通り、それぞれ「高い」「低い」を表す形容詞をそのまま名詞として用いています。由緒正しいドイツ語本来の形をしているようにも見えますが、複数形は -s を付加して Hochs / Tiefs と、なぜか外来語のような形になります。なぜなのか、一応文法書で調べてみました。


Helbig, G. & Buscha, J. の Deutsche Grammatik (1970, 1989, 1991) によれば、ドイツ語の名詞の中で、複数形語尾として -s を付加するのは以下の語群です( p.242. カッコの中は当ブログ筆者による仮訳)。


  1. Viele Fremdwörter, besonders aus dem Englischen und Französischen.
    (とりわけ英語およびフランス語からの外来語の多く)
  2. Substantive, die auf Vokal enden (außer -e).
    (( -e 以外の)母音で終わる実詞)
  3. Kurzwörter.
    (短縮語)
  4. Einige Wörter aus der Seemannssprache und Meteorologie.
    (船員用語及び気象学からの若干の単語)

このうち最初の英仏語由来の外来語が複数語尾に -s を取るのはまあ分かるとして、2つ目と3つ目もなんとなく理解はできるのですが、最後の「船員用語及び気象学」だけやけに具体的なのが何気に気になります。実例として、「船員用語」の方には Deck (n. -s/-s, -(e)s/-e) 「甲板」、Pier (m. -s/-e(-s), f. -/s) 「埠頭」、Wrack (n. -(e)s/-s(-e)) 「難破船」の3つ、「気象学」の方にはちょうどここで問題にしている Hoch (n. -s/-s) 「高気圧」と Tief (n. -s/-s) 「低気圧」 がそれぞれあげられていました(訳と文法表示は当ブログ筆者が補足)。


なお、それぞれ Hochdruckgebiet / Tiefdruckgebiet の省略形と考えれば、3.の短縮語という可能性も考えられますので、念のため3.の実例も上記文献からあげておきます(訳と補足は当ブログ筆者)。


Akku (m. -s/-s) 「蓄電池 (Akkumulator) 」、 Lok (f. -/-s) 「機関車 (Lokomotive) 」、 Pulli (m. -s/-s) 「プルオーバー (Pullover) 」、 Trafo (m. -(s)/-s) 「変圧器 (Transformator) 」、DRK (n. -/ ) 「ドイツ赤十字社 (Deutsches Rotes Kreuz) 」、 LKW (m. -s(-)/-s(-)) 「トラック (Lastkraftwagen, Lkw) 」( auch ohne Endung! 語尾無しの場合もあり)

後半の頭字語(頭文字だけをつなげた語)を除くと、これらはいずれも外来語で、しかも長い形の一部分を切断して作っているため、語尾が通常のドイツ語の名詞語尾とはちょっと異なっていることが分かります。


ただドイツ語の Hoch / Tief が3.と4.のどちらに当てはまるのか、(もしくは両方なのか、)現時点では判断しがたいので、以下ではちょっと視点を変えて、 Hoch / Tief と英語の high (高気圧) / low (低気圧) との関係について話を進めてみようと思います。


まず、4.の「航海用語と気象学」ですが、これは一見するとかけ離れた概念を無理やりひとまとめにしているような印象を受けるかもしれません。(実際当ブログ筆者にもそう見えます。)しかし、実際両者には深い関係があることもまた事実です。航海術の分野においては、悪天を避けるための経験則、いわゆる「ボイス・バロットの法則 (Buys Ballot's Law) 」というものがあるのですが、これは風を背にして立った時、北半球では左ななめ前方に低気圧(すなわち悪天)の中心があるというものです。この法則の発見には、航海ログという形での情報の蓄積と、その分析が大いに寄与したようです。(このあたりの事情は英語版 Wikipedia の Buys Ballot's Law の項目の記述が参考になります。)その研究成果の出版は主に英米などの英語圏諸国が中心となって行われました。イギリスは元々航海術の分野でも先進国でしたから、それらの出版物に出てくる航海用語の中には、気圧の高低を示す highlow などの気象用語も多く含まれていたはずです。


高気圧 / 低気圧を表す英語の highlow も、元々は形容詞(高い / 低い)を名詞(高気圧 / 低気圧)として転用したものです。なので仮にドイツ語がこれにならったとしたら、形容詞形をそのまま名詞に転用して HochTief という語を作り出した可能性も考えられるのではないでしょうか。


もちろんドイツ語文法にも形容詞を名詞化する方法はあるのですが、その場合形容詞には活用語尾が付加されることになるはずです。(これは大雑把に言えば[冠詞] + [形容詞] + [名詞]の並びで形容詞を格変化させて、最後の[名詞]をとっぱらった形にするものです。それにより形容詞は名詞扱いされることになるため、頭文字が大文字になります。)しかし HochTief は単数属格以外は基本的に格変化をしておらず、何より複数語尾が英語と同じ -s となる点が決定的に異なります。よって、仮に形容詞由来の名詞だったとしても、少なくともこの方法で作られた語ではないということになります。


他にも形容詞以外では、 Höhe (f. -/-n) 「高み」や Tiefe (f. -/-n) 「深み」などの抽象名詞を「高気圧」や「低気圧」の意味で転用する方法も考えられたかもしれませんが、それらの語は気象の分野でも「高さ」「高所」 / 「低さ」「低地」の意味でしばしば使われていますので、混同を避けるためにも使わない方が得策だったでしょう。


また、「高気圧」や「低気圧」は自然科学領域での新しい概念であり、意味的なまとまりも強いため、在来の語で代用するよりは、いっそのこと外来語もしくは借用語を使った方が特別扱いがし易かった、という事情も考えられます。


これらの諸々の事情から、ドイツ語では英語の high(s) / low(s) の、複数形語尾だけをそのまま英語要素として引き継ぎ、語本体はドイツ語要素に置き換えた、いわゆる「翻訳借用」 Lehnübersetzung (もしくは「意訳借用」 Lehnübertragung (小学館独和大辞典))として Hoch(s) / Tief(s) の両語形が作られ、それが定着したのが今日の状況なのではないでしょうか。


(とはいえ、本来の「翻訳借用」もしくは「意訳借用」は、通常は2つ以上の語彙素を持つ語の借用について使われる概念ですので、これは厳密にとらえるならばドイツ語の Hochdruckgebiet / Tiefdruckgebiet と、英語の high pressure area / low presssure area との関係から考察していくべき問題であるのかもしれません。その場合、当然ながら上の分類で見た3.の「短縮語」の可能性についても視野に入れておく必要があるでしょう。まだまだ検討すべき余地は多そうです。(2021年7月1日加筆。))


ところで、元来ドイツでは高低気圧を天気図上でどのように記述していたのかについてなのですが、実はドイツでもこの分野の研究は元々盛んで、現在見るような天気図を世界で最初に描いたのもブランデス (Heinrich Wilhelm Brandes, 1777-1834) というドイツ人科学者だったとされています。ただその天気図は著書には掲載されておらず、実物は残っていません。後年他の研究者によって再現された天気図にも、低気圧や高気圧を表す語は書き込まれていなかったようです。


Brandes による天気図(再現)
引用元: Friendly, M. & Denis, D. J. (2001). Milestones in the history of thematic cartography, statistical graphics, and data visualization. Web document, https://www.datavis.ca/milestones/. Accessed: April 2, 2021

この天気図は Trabert, Wilhelm(1905). Meteorologie und Klimatologie. Franz Deuticke. に掲載されている再現図です。図中にもありますが、この図は1783年3月6日の気圧、正確には平均値からの偏差を図にプロットして、今日言うところの「等圧線」に相当する線を引き、風向きを矢印で示したものです。未来ではなく、あくまでも過去(それもブランデスが5〜6歳の頃)の低気圧の観測データをもとに描画された天気図です。


これはあくまでもブランデスの死後、別人によって再現されたものですが、見て分かるように中心部分に高気圧や低気圧を示す単語や記号は記入されていません。ブランデスが描いたとされる実際の天気図にもそれらの語やマークの記入はなかったと考えられます。


ついでながら、 ONLINE ETYMOLOGY DICTIONARY というサイトで英語の high を引くと、 "early 14c., "high point, top," from high (adj.). As "area of high barometric pressure," from 1878. As "highest recorded temperature" from 1926. Meaning "state of euphoria" is from 1953." という記述があり、英語では高気圧としての high の初出が1878年だったことが分かります。


一方、 DWDS – Digitales Wörterbuch der deutschen Sprache というサイトでドイツ語の Hoch を引いてみると、語源の欄に Hoch n. ‘Höhe, Größe’ (17. Jh.); in der Meteorologie (20. Jh.) Kurzform für Hochdruckgebiet (um 1900). とありました(どちらも下線は当ブログ筆者)。ドイツ語で高気圧としての Hoch の初出は1900年ごろとなっています。ここでは Hochdruckgebiet の省略形という扱い(つまり上であげた分類での3番目に相当)になっています。


いずれにせよドイツ語での初出( 1900 年頃)は、英語( 1878 年)よりはわずかですが後であることが分かります。


以上、英語の high / low との関係という観点からドイツ語の Hoch / Tief について考えてみました。以上見てきたことを整理すると、これら2つの語が複数形語尾として -s を取る理由としては、


  1. 船員用語(含む気象学)だから
  2. それぞれ Hochdruckgebiet / Tiefdruckgebiet の短縮語だから
  3. 英語の語形 high / low を翻訳借用(もしくは意訳借用)により取り入れた語だから

これらの可能性が考えられることになります。上の方で筆者は3番目の英語からの翻訳借用語説を採ってみたのですが、正直、単に短縮語であるから、という可能性も否定はできないかもしれません。ただ、その場合であっても、その語形にするにあたっては英語の high / low が手本とされた、という可能性はやはり考えられると思います。ここらへんの事情に詳しい方がおられましたらご教示いただけましたら幸いです。


追記:
船員用語でありかつ気象学用語でもあって、複数形に -s を取る語としては、他にも Stau (m. -(e)s/-s(-e)) があげられます。これは「堰き止め」を意味する単語で、動詞 stauen 「堰き止める」に由来する名詞です。「(交通)渋滞」の意味もありますが、気象学ではしばしば山岳などの障害物による気流の「堰き止め」の意味を表します。堰き止められた気流は迂回するか、さもなくば強制上昇により山を乗り越えるしかなく、その際に雲を作り降水現象を発生させます( Staueffekt (m. -(e)s/-e) 「堰き止め効果」と呼ばれます。)また Stauanlage (f. -/-n) では「ダム」の意味にもなります。( Stau については2021年4月22日追記。その上の部分も同日および同年6月22日、7月1日内容書き換え。)

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